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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 west[182]

投稿日:2013年6月9日

武将三成発掘の地

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 湖北地方に入ると、まずは賤ヶ岳の古戦場に行った。
 ここは信長の家臣だった豊臣秀吉と柴田勝家の両軍が死闘を繰り広げたところ。秀吉軍の勝利の立役者になった「秀吉の七本槍」の旗がはためいている。
「秀吉の七本槍」というのは、加藤清正、加藤嘉明、福島正則、脇坂安治、片桐旦元、平野長泰、糟屋武則の、若き「秀吉軍」の7人。もし関ヶ原で西軍が勝ち、豊臣の時代がつづいていたら、この7人の武将たちは、その後も大きな力を持ったことだろう。
 たとえば加藤清正は熊本に入ったが、今でも熊本人の圧倒的な人気を得ているのは、江戸期の大半、熊本を支配した細川氏ではなく加藤清正、熊本城の入口に建っている銅像も清正のものだ。
 賤ヶ岳から下ると、JR北陸本線の木ノ本駅に立ち寄り、旧駅舎を見る。木之本から長浜へ。木之本は駅名と町名が違う。カタカナの「ノ」と漢字の「之」の違いだが、このような例は日本中にけっこうある。
 長浜に着くと、ここでもJR長浜駅でアドレスを止めた。
 長浜駅前には豊臣秀吉と石田三成の「出逢いの像」が建っている。
 その案内板には次のように書かれている。

 長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)に立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみとついで持ってきました。そこで秀吉公はさらに一杯を所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉公は茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。この佐吉少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として今も語り継がれています。三成公はここから5キロ東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地あたりには官名にちなんだ治部という小字が残っています。また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残っています。

 長浜駅からは秀吉が築いた長浜城に行き、天守閣から長浜を一望。長浜の町並みの向こうには雲のかかった伊吹山地の山並みが見渡せた。
 長浜駅に戻ると、線路を渡って長浜駅の旧駅舎に行く。ここは現存する駅舎の中では日本で一番古いもので、明治15年(1882年)に北陸線の始発駅として建てられた。当時は大津から汽船で長浜に渡った。ここにはまた鉄道資料館があり、蒸気機関車のD51などが展示されている。
 最後に長浜の旧北国街道沿いの古い町並みを歩き、古い建物を使った食事処で琵琶湖名物のふなずしを食べた。
 琵琶湖産のニゴロブナやゲンゴロウブナを使ったふなずしは、現存するすしの中では日本最古のものといわれている。塩漬けにしたフナを何ヵ月もかけて飯に漬け込み、飯(い)ずしにしたもの。特有の臭みがあるので食べられない人もいるが、ぼくの好物。今回はバイクに乗ってやってきたので飲まなかったが、このふなずしは日本酒の肴にはぴったりだ。
 すしは稲の原産地インドシナの山岳地帯で生まれたといわれている。
 本来は川魚や獣肉を長い期間、飯に漬け込んで発酵させる保存食で、一言でいえば川魚や獣肉の漬物。ふなずしはまさにその原点といえる。
 今ではすしといえば、江戸前の握りずしが代表選手になっているが、その歴史はたかだか300年ほどでしかない。長いすしの歴史からいえば新参者だ。握りずしは気の短い江戸っ子がつくりだした本来のすしとは似ても似つかないインスタント食品で、握った酢飯の上に新鮮なネタをのせただけのもの。江戸ではそれを屋台で食べていた。
 漢字だと、旧来のなれずしが「鮓」、握りずしが「鮨」と使い分けられている。

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JR長浜駅前の「出逢いの像」
長浜城


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長浜城の天守閣からの眺め
旧長浜駅の駅舎


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鉄道資料館に展示されているD51
長浜の旧北国街道を歩く


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